一姫ニ太郎

長女K(4才)長男A太(3才)次男U太(4か月)を授かった50代お父さんの日常(2014年6月現在)

1985年10月26日と1993年10月28日と1997年11月16日

国立競技場。
まあ、TVで見たに過ぎないのだけれど。
木村和司さんの伝説のフリーキック、日韓戦。
メキシコ大会予選のこと。
この後にも、ソウル五輪予選、中国とのホームアンドアウエーもありますが。



この後、オフト監督を向かえ、ダイナスティカップ
そしてアジア選手権優勝。これが92年のこと。


そしてアメリカ大会予選ドーハの悲劇
其のイラク戦の前の韓国戦のキングカズーのゴールは忘れられません。
宿敵韓国を叩きのめした。それだけに。。。

そしてジョホーバルの奇跡。

でも私には、ドーハの悲劇よりも。
私は、あの日韓戦、85年の国立競技場が忘れられません。
負けたのに1対2で。
負けたのに、伝説といわれるフリーキック


そこから、蹴球関係者だけの宿願が。
日本の悲願と文字通りなったのです。
其の前に、プロ韓国にアマチュア日本が完膚なきまでに叩きのめされ。
プロ化が叫ばれ、独逸から奥寺が呼び戻されることがありましたが。


日本代表のW杯をかけた本気の闘いが。
日本代表を強化してそれがJリーグに還元されて。
次に、ユース五輪での闘いが、Jリーグに還元されていく歴史。


その歴史が幕を閉じていこうとしているのかなあ。
日本代表の蹴球が日本の蹴球を具現化している。
日本代表の蹴球が理想とされている時代の幕が降りようとしているのかなあ。


日本リーグの精鋭が中心の代表から。
ユース五輪等の闘いを通じた英才教育を通じた代表。
この独逸大会は、そういうものの集大成となるのかなあ。
ある意味、この大会以後のW杯の位置づけは。
私にとって、変わるものとなるかもしれません。


W杯予選でしか、あるいはキリンカップ等の大会でしか。
蹴球を見れなかった時代は。
ある意味エンターテーメントになりたかったはず。
いまや、代表戦はエンターテーメントでしかないかもしれない。


ううむ、いろんなことが浮かんでは消え。
まとまることができないな。
五輪の大好きな日本人はW杯も大好きになってくれた。
蹴球をメジャーにするのにW杯は欠かせない。
でも、代表とは関係ないJリーグがあって。
いや代表とは密接な関係を持つJリーグがあって。


私はいつから日本代表の試合を見ているのだろうと、ふと思う。
2,3人のスター選手しか見ていなかったから。
トンと覚えていないが。
GKはとんねるずの番組にも出てきた田口光久さんがいたと思う。
1970年代後半からだなあということになる。
サッカー日本代表全奇跡1990→2005という本を見ながら確認しています。
クラブチームとの親善試合なら。
ニューヨークコスモスとの試合。
コリンチャンスとの試合は覚えているなあ。


日本代表を強くする、W杯に出場するチーム選手を作る。
いや平たく言えば韓国に勝つチームを作るということだけれど。

日本は強くなった、W杯にも出れるようになった。
出場枠の広がりということもあるけれどね。
まあ、韓国に勝てるチームかどうかと問われると。
なんとか五分に近いところまでこれたかなという所だと思う。


私は日本代表おたくだったのだけれど。
これからは、赤黒おたくという形をとっていくと思う。
勿論、代表を応援もするし熱中もするのだろうけれど。


日本代表のために特別に教育としていくというの感じではなく。
Jリーグを通じてどんどん蹴球選手が出てくる。
そして、其の中から、其のときの監督が選手を選ぶ。
其の選手が今までは誰が選んでも同じというほど。
選手の層は薄かったけれど。
これから多種多彩ということで。
思い入れは薄まっていくだろうな。


そういう中で横浜FCは特異なチームとなったと思える。
そこに東京V1969のコーチの面々の暑苦しいこと。
キングと呼ばれる選手はまだ出てきていない。
其の選手の蹴球生活の最後をもしかして見届けることが。
できうるかもしれないそういうJ2にわが赤黒はいるのですが。
W杯よりもそちらのほうがもしかして大事かもしれないなあ。